
ジャングルジム
身体論で著名な市川浩の一文に、次のような記述があり目を見張った。(1990年代前半のもの)
文明は機械を発展させた結果、人間を機械に沿わせる形での発展に向かっている。そうではなく、本来的に、人間の思考や行動に機械や道具が沿うべきである。
これはその段において最終的な、根本的な言明であって、上述の発言の手前に以下の事情、あるいは実情があると述べられており、そしてその上で「人と道具あるいは環境」との関係性の理想的なありかたを上の形で結んだのだった。
市川によれば、「道具を使う」という行為そのものが、実のところ「人間が道具に使われている」側面を含んでいる。しかしそれは単なる従属という意味ではなく、むしろ
―たとえば、手に持ったハサミに少し体の重心を預けながら使うときのように―人が道具からの“反応”を感じ取り、そこに合わせて身体を調整するような、
一種の「応答」の関係とする。
つまり、道具はただの機能ではなく、人の動きや思考に対してフィードバックを返してくる存在であり、そのやりとりを通じて、人の行動そのものが広がったり、予期せぬ方向に導かれたりする。そこに日常の事実と重なるものを強く感じた。
普段コンピュータでデザイン作業をしていると、コピーミスやペーストミスなどによる操作アクシデントで、逆に大きなヒントに出会ったり、スキャンミスした画像が思わぬ印象を発揮したり、またあるツールを試しに触ってみることで、新しいアイデアが展開されたりすることがある。
道具が制作に関わってくる場面というのは、案外たくさんあって、気づかないうちに発想を助けられていることがある。しかし人は道具を自分が「使う」ものであるという固定観念が強くあるために、その相互性に気付けない事が多い。
そもそも「自己(身体あるいは思考)から何かを展開していく」ことが「自分がつくる」ということの基準となる時点で、限界地点が設定され過ぎてしまっていると思ったりする。
自身とテクノロジーのバランス、これが凄く難しい。
ニーチェがタイプライターを使い始めた後、自身の文体に変化が起き、そして「道具は思考に参加する」という意味の言葉を残したらしい。
横尾忠則が昔、なにかのインタビューで「洋服は少し体に反発してる方がいい」というような意味合いの事を言っていたのを読んだ。
いずれのアフォリズムもその時の自分にとって、ぼんやりとしながら、なにかしらの強い力、たぶん吸引力のようなものがあった。
市川浩の身体論に、ジャングルジムの話があった。
それは、幼い子どもたちがどうやって「自分を位置づけるか」、つまり自己を「ひとつの存在として身体化していくか」という、生物的な発達過程に関わる話で、印象に残っている。
ジャングルジムという複雑な位相空間の中で、子どもたちは身をよじらせたり、かいくぐったり、上に登ったり下に降りたりする。ときには挟まって抜け出せなくなったり、不意に解放されたりしながら、全身でその空間がもつ制限と自由に「応答」していく。
そうした応答の連続のなかで、「自分の身体」や「空間との関係性」を感得していく——それが身体性の獲得の基点になる、というような内容だった。
その話が、どこかニーチェや横尾忠則の言葉とも反射しているように思えた。