DJ

読後、心の片隅にずっと残った詩が三年ほど前からあったのだけど、何に載ってたのか思い出せなかった。内容は「風が止み 花はなお落ち 鳥が鳴き 山はいっそう静かになる」という内容。その時感動を覚えたにも関わらず、うかつにもメモもしおりも挟まず、そのまま時が過ぎてしまった。その詩を読んだとき、なんか強く癒された記憶だけが残っていて、それをどうしても再確認したかったのだけど打つ手なし。

つい先日、本棚の奥にあった「老子の思想」という文庫本をパラっとめくってみたら、字面の雰囲気から「あの詩はこの本に載っていたのではないか・・」という予感を感じて、ついにその詩について記載している箇所を見つけた。

しかしそこには目的の詩の意訳的紹介があったのみで、原文そのものは載っておらず、「王安石が編集したものに収録されていた」などと説明されているのみ。その「王安石」を調べてみようと思い、文庫本としては製本ギリでは無いかと思われるブ厚さの「漢詩鑑賞辞典」(講談社学術文庫)を購入、王安石の収録詩を確認したが当該のものは見あたらなかった。しかし、その詩らしきある一遍が収録されていた。 

一鳥不鳴山更幽
王安石

ただ、これでは「一羽の鳥も鳴かず、山は更に静かだ」という詩であり、記憶と逆である。

これの元は「王籍」という人の以下の詩のアレンジのようだ。

蝉噪林逾静 鳥鳴山更幽

王籍

こちらは、コントラストが記憶の中の詩と符合した。後半はまったくそのままだ。しかしこの作品(八句)のなかには前半の「風が止み 花はなお落ちる」が違う表現となっている。

「蝉騒がしく、林は静かとなり、鳥鳴いて、山は更に静か」だから反復的な構成だ。少し記憶とずれている。

その文庫本には王安石の参照元としての「王籍」の解説であって、王籍の詩は収録されておらず、それ以上は調べられなかった。


そんなこんなしてる内に、フとこれらのページを見つけ(注2025:現在そのURLはなくなっているため削除)それによると件の詩は「風定花猶落」を「謝貞」という人の句から、「鳥鳴山更幽」を王籍の句から、というふうに別々の句を王安石が「集句」したものとあった。

集句!アリなのか!

という単純な驚きと自分がずっと「いいなァ」と思っていた詩が、個人の完成作ではなく、実はMIXされたものであったという事実を知ってやられた〜、といい気分になった。

1300年前の芸術でも、サンプリングがあったのか、まるでDJじゃないかと膝を打つ。 


和歌では「本歌とり」というのがあるようで、これは先人の句を引用しつつ自分のアレンジを加え、オマージュ的に新しい作品をつくりあげていくようなものとあった。しかし集句となれば、要素そのものは「誰かがつくって、既にそこにあった句」であり、創作行為としてはそれらを「どう組み合わせるのか」ということとなる。 
これはいわゆる詩におけるコラージュではないかと、ひとり奮起し引き続きネットで「集句詩」について検索してみたが思うように見つからない。ひょっとすると集句というのは、漢詩の世界ではマイナーなのか。(ひょっとすると自分が知らないだけで、表現ジャンルとして確立しているのかも知れないが、もしそうであればとても興味深い)。

ともあれ、これは既存の要素を組み合わせるバランス感覚が創作主体であり、「組み合わせ、あるいは順序」というみえぬもの、つまり可視的なものを創造している訳ではないのだけど、その「みえぬもの」の操作から、できあがりに新しい感覚を与え、解釈がより多様だったり深まったりするような意味が創造される事象であり、とてもエキサイティングだと感じた。


学生時代の夏休み、自由課題を制作するために学校のアトリエに入ったある日、同級生が、段ボールをキャンバスに貼り付けててびっくりした。それまで「絵の具や鉛筆などで描くもの」が「絵」だとばかり思っていた自分だったが、初めてコラージュというものを知って、「描かなくても作品ってつくれちゃうの?」と、大きな衝撃を受けたのだったが、「集句詩」を知った瞬間は、そのときのデジャヴがあった。

「詩とはもっとも良き語をもっとも良き順番においたものである」というのをどっかで読んだのだが、思い出せない。

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