
細部としてのオペラ
専門学生の頃、ある日の課題講評の午後、提出された同級生の作品のひとつにに驚くべき色が塗られていた。それは(比喩ではなくて実際に網膜的に)目に焼き付くショッキングな色だった。ピンク色のようでありながらオレンジのようでもあり、キーンと音がしそうな蛍光度で、今まで知ってた有彩色のいずれとも違うパワーを感じた。ポスターカラーで練習した十二色環が絵の具の全てだと思っていた自分には、突然の出来事だった。
それは一体なんという色か、その同級生に聞くと「オペラ」と言った。そして放課後、まっすぐ画材屋に向かっていた。「オペラを塗ってみたい」という気持ちだけがあった。
ふつう学校での課題といえば先立ってテーマが設定される。例えば「社会問題」「好きな国」「架空の喫茶店のCI」といったものを与えられ「そのテーマを出発点に」取り掛かる事がセオリーだ。
しかしその意識で構え続けていると、自由課題の時に「何かテーマはないか・・」ということが悩みの種になる。
オペラ事件をきっかけに、その後は着想がテーマを通り過ぎて「オペラを塗ること」となった。「オペラでバーっと塗ったバキンとした面」「オペラでカーっと引いた線」がとにかく見てみたい、それがまずありきで、肝心のテーマについては「とりあえず脇におく」という思考回路になった、つまりコンセプトとマテリアルの順序が逆転してしまったのであった。
そこから制作の意気込みは、それまでに無いような高揚感に包まれていた。どんなテーマが与えられたにせよ、とりあえず自分はオペラが塗れればそれでよいわけで、主題の達成は二の次ということになってしまった。
しかし、不思議な事に、そういう風に自分が本当に好きなディテールを基準にして制作に突入していくと、塗りながら描きながら「・・・って事は、こーすればテーマと繋がるじゃないか?」といった生産的な発見がどんどんうまれてくる。
例えば、テーマが「好きな都市をイメージしたポスター」だった場合、まずその事は置いといて「オペラで線引きたいなァ」と思っている自分がいて、色鉛筆などでエスキスしてる内に早くオペラで線を引きたい、もうエスキスはいいや、という頃合いで、(A)「そー言えばユニオンジャックって、赤い線があったな」と思い出し(B)「あの赤い線をオペラにしたユニオンジャックいいな」で、「好きな都市をイメージしたポスター=LONDON」というテーマに到る。呆れるほど幼稚な発想の流れだが、自分にとって重要な点がある。
(A)のアタリでは、無意識的に、テーマに近づけた瞬間。(B)のアタリでは比較的意識的に、テーマ性とやりたい事(オペラで線を引くこと)が絡めてきた状態。なのだが、最初にやろうとしていた事、また最終的にもやりたかったことの全ては「好きな都市のイメージ」ではなく「オペラレッドのカツーッとした線」である。その好きな事が、意図されていなかった、(がしかし達成すべき)テーマを誘発的にたぐりよせたような流れになる。
逆に、「好きな都市のイメージ」といった大きいテーマそのものから考え始めたような場合、たとえいくつか好きな国があったとしても、とりかかりが掴めないまま時は過ぎ、思考停止から暗礁に乗り上げることが多かった。学校の課題では何度も、そのように乗り上げた。概念からものをつくるにはなんらかの技巧が必要なのだと思うし、当時はその方角での思考法がわからなかった。
God is in the details. (神は細部に宿る)という出典不明の言葉がある。この言葉のもともとの本意はハッキリとは確認出来ないのだが、自分が捉えてる限りでは、日本神話でいう所の八百万の神的な、どんな所にも尊いものが潜んでるよ、と言った宗教的、道徳的な意味であったり、細部にまで愛情をそそいでこだわるその精神そのものが全体のクオリティを高める事に繋がり、またそのような細部を発見した時に全体の精神性を感じられる、というような芸術的、哲学的意味あい、得に自分は仕事柄、後者の意味あいでこの言葉を解釈しており、「カッコ良いワード」に登録してあった。
この言葉を、もともとの意図から自由になってあえて別解釈しなおしてみると、自分の学生時代の「オペラ」のような「自分がどーしようも無く惹かれてしまうディテール」から、意図する事無く「建前」が成立させられていく様相をみるに「自分 vs オペラ」の間にある何者かが自分の意図を超えて「制作課題」を成立させていく運動をもちはじめ、ひょっとするとオペラから発せられる蛍光の度が「細部に宿る神」と言えるかも知れないと思った。その神は、全体を支配するすでに完成された神ではなく、作り上げていく可能性の神だ。
「スティックをカッコよく、くるくる回す」のがどーしてもやりたくて、ドラムを始めたという人がいる。彼にとってはここ一番の効果的な「クルクルッ」のためだけに、周辺のリズムが存在しており、より高次元のクルクルッを追求していくうち、そのクルクルッを最大限に活かすリズムや間をハメるためのドラムテクニックが必然的に磨かれて、「結果的に」人が感じる音を出している。
その人にとってのドラムの神(細部)は、実音響の「ドンドン!」ではなく、無音の「クルクルッ」の中にあるのだろう。