線のイロハ


(イ)気になる線とのであい

 東京・天王洲TERRADA ART COMPLEXに行った。特に目当ての展示があったわけではないが、フロアごとにいろんなギャラリーがあって、ぶらぶらとみて回るだけでも楽しいビルだ。


 不意にFLORIAN PUMHÖSLというアーティストの作品に目を奪われた。白い背景に製図ペンで描いたような、極めて簡素な描線の作品群。印象としてはとてもミニマルな画面構成で、アート作品というよりは何かの設計図、あるいは間取り図のようにも見えた。それだけであればそれだけの話なのだけど、しかしその描線がただ無機質な線で描かれたものではなかった。

 フォルムの抑揚は緩やかでありながら膨らみや流れに何か目を捉えて話さないものがある。むしろそれは有機的であり、そして、虚を衝かれるような途切れや接続、凜とした浮遊感が画面に流れている。会場を何往復かした挙げ句、一期一会と思い作品集を購入した。 


書棚に収まってからも日常の中で、奇妙に気になり続けていた。

自分の興味とあまりにも近いのだけど、なぜか開くことに遠慮してしまうような作品集。見返すたびに、なぜかどこか心の深いところで身構えてしまう。そんな奇妙な距離感が、その作品集にはあった。なぜだろうか。

(ロ)不可視の線=静止について

書店でふと目にとまった、廣松渉監修の「ヘーゲル・セレクション」という文庫を買った。セレクション、なので基本的には、編集された断片集だ。どこから読んでもどこで読み止めても構わないところが気軽で、読める時に読めばいいや、くらいの気持ちで買ったのにもかかわらず、読んでいくうちにどんどんと惹き込まれてしまい、鞄にいれて持ち歩く事になった。

その中で、彼の初期の思想(イェール大学の教授時代)で自然学に関するヘーゲルの言葉のうち、自転する天体についての記述があり、次の行が目に焼き付いた。

「運動が現実的であるためには、概念上、静止は運動に対して、回転軸は(回転)物体に対して無関係なものであってはならない。」

(平凡社ライブラリー「ヘーゲル・セレクション」廣松渉・加藤尚武 編訳 184頁)

ここでの言葉をまとめると、

静止=回転軸

運動=回転する物体

で、その両者は無関係であってはならない。


地球のように回転する物体が自転していれば、その中心に「軸」が発生する(あるいはすでに発生している)。

この軸は手に触れる事もできないし、直接目で見ることも出来ない。だからと言ってその軸(つまり線)が非存在であるわけではなく、その線がどういう様態なのかわからないが、とにかく存在していることによって、現実的な回転体がそこに回転し得ている。という事の記述。

当たり前すぎる文面に不意打ちをくらう。

運動は運動のみにあらず、「軸」という静止体を伴ってこそ、運動体が運動し得ている。 

そして、静止している地軸とは、イメージするなら「線」である。そしてそれは「線」とイメージされながら現実的には不可視である。

(ハ)メディアにおける動態の優位性について

「万物に留まるものはなく、常に流れ動いている」という常識は、時間がある以上その通りなんだろうけれども、そうすると「静止」という概念が空想になってしまう。それについて「なんだろうねー」と考えていた過去のある日、絵画(静止画)と動画の違いに思い当たった。当時の時代感として、広告物としての動画の静止画メディアに対する優位性が一部で囁かれ始めており、都心の街角で動的な広告媒体が目についてきた頃だった。

駅やビル看板にどんどんサイネージが採用されていく街の景観の変化。同じ面積の中でよりダイナミックに、よりエコノミックに展開する視覚的吸引力の増幅。いずれポスターという媒体の有意性が消尽するのかも知れないという素朴な憂慮。

修業時代に必死にADC年鑑などで華々しいポスターを見ながら徹夜をしていたのを思い出したりして「なんだろうかねー」と思っていた。


結論なきママ

(ロ)での「静止と運動」についてのヘーゲルの線にまつわる一文は、日常的にぼんやりと取り囲まれていた(ハ)での「静止画への憂慮」にちょっとクリアなものを差し込んでくれた。静止にも価値があることを改めて告げてくれたように思えた。

「静止画」は「動画未満」なのではなく、また「動画の分解」でもなく、静止という様態によってある種の運動を支えているものであり、そこにひとつの意義があるとする。その仮定が正当ならば、グラフィック・デザインのコアな意義がそこに感じられるように思え、ヘーゲルから少し勇気づけられた気持ちになったのだ。

かつて、アートディレクターの葛西薫(先生と勝手に読んでいる)のムック本『葛西薫の仕事と周辺』で「映像には一瞬が映ってて欲しい、写真には永遠が映ってて欲しい」といった内容が書かれていたのを思い出した。(たしか烏龍茶の広告のあたり)


今改めて、FLORIAN PUMHÖSLの作品集を眺めてみると、彼の線は決して留まっておらず、やはりなんらかの音を奏でていて、でも不意に静寂に戻ったり、またハっとさせられたり見ているとどんどん気持ちが高揚してしまう。その線は私の気持ちを色々と運動させてやまない。静かな気持ちで見るつもりの作品集から予想外の動勢を受け取ってしまう事がやまない。

だからこの作品集を見ようとするとき一瞬躊躇するのかもしれない。とも思った。


初期ヘーゲルの捉えていた「地軸」とFLORIAN PUMHÖSLの描く「線」とが、自分のなかで反射しつづけていて、まだ自分の内面で、どういう意味があってこの両者が関係づけられているのかが言語化できない。出来ないが故に断片のまま、ひとまず書き記すことで満足する。

いつか(イ)(ロ)(ハ)がしっくりまとまるといいのかも知れないし、まとまらない方が面白いままなのか。