半濁音のふしぎ

四年前、まだ一歳だった息子に、はじめて渡した絵本が『んぐまーま』だった。つづいて『ぽぱーぺぽぴぱっぷ』も手元にあったので、それも自然と読むことになった。いずれも文は谷川俊太郎、絵は『んぐまーま』が大竹伸朗、『ぽぱーぺぽぴぱっぷ』がおかざきけんじろうという、なんとも贅沢な組み合わせの絵本だ。

「文:谷川俊太郎」とは書かれているが、実際の読書体験は、むしろ「音:谷川俊太郎」と言いたくなる。

なぜなら、読む内容は言語ではなく、擬音なのである。

(としか言い様がない、そして文としての形態は保っているので、これを文というのか擬音というのかわからない)

『んぐまーま』は濁音(が・ぎ・ぐ・げ・ご──テンのつくやつ)、『ぽぱーぺぽぴぱっぷ』は半濁音(ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ──マルのつくやつ)を言語化した「文体」でつくられた二冊の絵本なのである。

この二冊を文で説明するのはなかなか骨が折れるので、機会あればぜひ御一読ください。


そんな不思議な二冊はそれから二年ほどで消失した。なぜかというと、この二冊をいたく息子は気に入ったようで、折々読みきかせ、絵も十分に楽しんだ揚げ句、そしてついに息子に噛まれ、破られ、そしてちぎられ続けていくうちに(これは幼児が読書を十二分に楽しんでいるという事である)日々ページが少なくなっていき、最終的には本自体が、物質として分散し、さらに散逸してしまった。
当時この二冊を楽しむ息子をみながら、濁音や半濁音のもつ音の印象「なんか面白い」「なんか楽しい」という音のパワーに驚いていたなぁと思い出す。


私見
「半濁音」という用語は、一体誰が設定したのだろう。
何が「半分濁ってる」のだろうか。むしろ「ぱぴぷぺぽ」は、音としてとてもクリアな印象なのだ。
だから、「半濁音」と聞いてそれが「ぱぴぷぺぽ」のことだとすぐにはピンとこない。

文法用語には他にも「修飾語」「補語」「活用」など、どこか身体感覚から離れた言いまわしが並ぶ。
「形容詞」や「動詞」はまだわかる気がするけれど、じゃあ「語」と「詞」の違いって、何だろう。

どうして、自国の言葉に、こんなに難しい定義を施さなければならないのか。
それを児童が、決まりごとのように学ばなければならない理由とは、何なのか。
今でも、すっきりとは理解できないままでいる。


ところで麻雀での哭きに「チー」「ポン」「カン」がある。
「チー」はなんとなく文字通り上家から引っ張ってくるなにか「ちょっとだけもらいます」的な、自分だけが袖の下からひっぱるような少し後ろめたい印象、「カン」は音の響きが乾いていて「すべてのこの牌は本局において自分が独占した」ことを宣言する、なにか非人情な響き、たとえばカンと聞いただけでそれがたとえドラも乗らない中張牌であっても、他家の間に一瞬「なにごとか」といった緊張が走るのだけど、両者に引きかえ「ポン」はどこか朗らかである。「ポン」が生み出す音の感触はどこかで「トイトイ」というこれまた朗らかな音の印象(ドラが乗らない限りにおいて)の役を連想させ、おおよそは「タンヤオ・トイトイ」と言ったようなあまり憎めない朗らかな役へと向かっていく。まれに<中と發がポンされて白が初牌>といったようなシビアな状況もあるのだがそれでも<中と發がカンされて白が初牌>よりも何故だかわからないが、両方ともにロンされた時の損失はいずれも甚大なはずなのに、<ポン>されたその状況の方が気持ちが楽な気がするのは役の状況だけでなく、半濁音のもつ朗らかな響きが影響しているのは間違い無い。また、一度「ポン」すると必要もなくもう一度「ポン」したくなる気持ちを抑えるのが困難なのも半濁音の(もう一回それを言ってみたくなる心地よきその)音の響き、そのせいだと確信している。

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