パーセプション

一週間ほど前、少しだけ時間が出来たので神保町へ寄ってみたときに、三省堂4Fでふと目にとまったディドロ著作集(1)の背文字に目を奪われ手に取った。装丁に目を奪われたのか、背文字に目を奪われたのか定かでは無いのだけれども、気になる本は、出会いと思ってなるべく迷う前に購入する事に決めてはいるのだが、すでに溜まっている本もあるため逡巡、購入をためらった。ためらいながらも、ページをめくるのはタダなのでぱらぱらとめくってみると、以前よりすこぶる気になっていた「盲人にかんする手紙」が収録されており、いけない購入意欲が沸いてしまったため「これは今読まなくてもよい」と自分に強く言い聞かせながら、ページから離れようとするものの、「正方形」「円」「球」「知覚」「直線」と言ったような仕事柄気に掛かる概念が次々と目にとびこんでくる。「これはきっと買う事になるだろう、なるに違いない、しかしそれが今なのかどうかだ」と自問しながら気持ちを切り替えるために、2Fの文庫コーナーへ下り(きっとそうすれば本に直面したときの熱も醒めるであろうから)、2Fを一巡したが、やはりいそいそと4Fへ戻っていく自分がいた。


内容は、ある婦人に宛てた、一人の盲人からの手紙という体裁をとっている。ディドロの知覚論が、盲人を通じての実証的な検証を下敷きに、手紙という形で展開されていく。読んですぐに気付くことだけど、著者の盲人の知覚世界、存在認識の推察の深みが尋常とは思われず、繊細な観察と透徹した洞察に基づかれた文面に、ディドロの知性にあらためて感嘆する。

五感に不自由のない私たちは、往々にして、知覚障碍のある人々よりも「より広い世界を享受している」と信じている。実際視覚の問題であれば、描線そのもの、色そのもの、形態そのものはより「直接的に」享受するであろうし、聴覚であれば音の高低や大小、リズムや速度などより「直接的に」享受するであろう、と。


しかしこの本に書かれている盲人の手紙は、視覚を持つ人こそ、つまり、見えるからこそ気付かない事があると伝えている。私たちが何に実際「気づいていない」のか、あるいは忘れてしまっているのかという事実を、読者が気づかなかった角度から記されている。(それ)はある種のデリケートな感受のようなものだと思うけれども、自分は(それ)をうまくここに書き改める事ができない。

(それ)らの大半を看過することで、情報過多を回避し、日常的な精神のバランスを保ち暮らしていけるのだろうけれども、同時にある種の「瞬間」を通り過ぎてしまうこともまた確かなのだろう。

「われわれが盲人の認識する世界像を不完全だと思うのであれば、もし人間よりもひとつ知覚が多い存在が人間をみたら、われわれの認識する世界像もまた不完全といわれるだろう」

というディドロの所見に「鳩は人間より沢山の色をみている」という事を思いだし、ハっとした。

余談。
誰の展覧会だったのかを忘れてしまったのが残念なのだけれど、かつて原美術館で開催されていたある共同展(だったと思う)の一角に、強く印象に残っている作品があった。
生まれつき目の見えない人——成育途中で視覚を失ったのではなく、生来の盲目の人——のポートレートが掲げられ、その横に、海の水平線の写真が並んでいた。
写真には、本人の言葉が添えられていて、それは「海とはこういうものだろう」という彼自身の印象を述べたもの。驚くべきことに、その内容は、私たちが実際に知っている海の印象と、ほとんど変わらなかった。

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